2010年7月1日木曜日

芸術に触れていくっ!

芸術大学を出ていて言うのもなんだが、アートと呼ばれるものを敬遠していた感がある。
現代アートを見ても分からないのもあるが、なんかこうファッションでアートを語る人が好きじゃない。そういう人も含めてアートの世界が成り立っているのは重々分かっているし、否定はしないけど、なんかね、、、。

そう思ったから、「生半可な気持ちでアートと接してはいけない」という潜在意識があるのかもしれない。

が、最近すこし心境に変化が現れはじめた。

人間、仕事にしても遊びにしても>センスというものがある。なにもファッションだけではない。人は何かを選択するときに、必ずこのセンスに左右されると思っている。
センスの良し悪しはなかなか判断しづらいが、ワタクシの感覚で言うところのセンスが良い仕事や遊びが出来る人は、カッコイイし尊敬する。
今の自分のセンスが他人からどう評価されているか分からないが、センスを問われた時の判断がその時の自分なんだろう。


このセンスと呼ばれるものを、どう向上させるべきか?


なにをもってして向上と呼ぶかも微妙な領域だが、自分なりにセンスを磨くにはどうするべきなのかを考えるに、やっぱり外的刺激が重要と思う。頭の中で考えただけでは磨かれない。
センスがいいなぁ~と思えるものを見たり聴いたりして、「やられた!」とか「なるほど」と思う。そういうことが大切なのではないだろうか?そういう経験がいつかどこかで繋がって、判断材料になったり、何かを生み出したり出来るのではないか?と思う。

そういう意味で芸術に触れるということは、とても刺激になるのではないだろうか?
と最近思うようになった。


猪熊弦一郎さんが生前こんなことを言っていた。
「絵は、見る人の起爆剤になればいい。」

先日、幸運にも猪熊さんのドキュメンタリー映像をMA(音付け)させていただいた折、この言葉に出会えた。なんかこう、衝撃的だった。ガツンときた。
今までの芸術に対する考え方を、いい意味でぶち壊してくれた。

美術の授業では、「この絵はこういう時の絵で、作者の意図はこうで、いういう意味なんだよ。」と教えられてきた。テストに出たりする。自然とそういう認識になっていた。
確かにそうかもしれないが、そう教えられるとつい絵を見たときに、そういったことを感じて理解できなければいけないという先入観があった。

つまりこうだ。
絵を見る → この絵の意図を汲み取らなければいけない → 分からない → 芸術ってムズい → 興味がなくなる。


アート好きな嫁さんに先日、その疑問をぶつけてみた。
「絵も彫刻も音楽といっしょじゃないの?あんた音楽好きでしょ?」とのこと。
う~ん、、、。

音楽は理論で分かるんです。この音がすこし小節を跨いでシンコペしているから盛り上がるだとか、こういうフレーズ展開だから好きとか、、、。このコード進行が効果的だとか、、。
絵画や現代アートも勉強すれば、理論的にわかるようになるものなのか?

アートが好きそうな後輩にも「美術館とか行ったらなにをどうみているの?」と聞いてみた。

「この線が好きとか、そういうのです。」

ふ~ん・・・・・。


我が家には4歳の息子と1歳の娘が暴れ回っている。
4歳の子は絵を描くのが好きだ。下の子をそれを真似て幾何学模様を書いている。
うちの子だけでなく子供はみんな絵を書くのが好きだ。

息子になぜ描くのが好きか聞いてみた。
「楽しいから。」


ハッ!!

そういうことかっ!

絵を描いたり音楽を演奏したりとモノを創造するってことは、作る本人が楽しいから作るんだ。
作ってるときは、他人の評価なんて気にしない。そこには楽しいからという根本的な意識がある。クライアント受けを狙って作ったものは、大概おもしろくないものだ。
だったら作品を見る側も、作品の意図や作者のメッセージなどを小難しく考えて見る必要なんてないのかもしれない。
作者がその時「オモシロイ」とか「楽しい」と思って作ったものを、共感できようが出来まいが、なにかを感じさえすればいいんだ。「なんか好き」「なんか嫌い」だけでもいい。

「絵は見る人の起爆剤になればいい。」
「音楽もいっしょでしょ?」
「この線が好き。」
「楽しいから。」


な~るほ~どね~。


メッセージ性の強い作品もたしかに存在するので、多少はメッセージを受け取れる自分のセンスも持っていたいものだ。


そういうわけで、これからは芸術に触れて行こうと思ったわけです。と同時にカブれないように気をつけねば。
今月19日からはじまる瀬戸内国際芸術祭。仕事でも行くけど、せっかく地元で行われるんだから、仕事以外でも見に行こうと思う。

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