2011年5月2日月曜日

東日本大震災

少しためらったけど、残して置きたい記憶だと思ったのでここに記録することにした。



今回の震災で被害を受けられた方々に心よりお見舞い申し上げます。
そして亡くなられた方に心よりご冥福をお祈りいたします。




2011年3月11日午後2時46分。
僕はキリンビール岡山工場で取材中だった。
工場排水からバイオガスを作って自家発電するシステムの撮影。僕の隣で20気筒の巨大エンジンが唸りを挙げていた。

午後5時30分頃、帰社すると社内の雰囲気がおかしかった。みんな仕事中だけどテレビが気になるようだった。画面にはヘリからの映像で津波が押し寄せる様子が映されていた。
「これ何?、どこ?日本!?」と言ったような気がする。


あれから1ヶ月が過ぎた先日のこと、震災の被害調査をする学者団体に同行取材をすることになった。
幸い仙台空港への便がほんの数日前、便数限定で再開されていたので、大阪伊丹空港から飛行機で移動できた。

ほとんどの機器が動かないようで、滑走路からバスでターミナルへ向かう。
風がひどく吹いていた。
荷物の受取もベルトコンベアーが動かないので、手運びで持ってきてくれた。電気は来ていたが、エアコンは動いていなかった。ANAとJALの即席カウンターがベニアで作られていた。

空港の周辺。風が強いのでチリや埃が舞って視界が悪い。

車が沢山流されていた。セスナも何機か見かけた。


タクシーの運転手さんは、あの日も空港でお客を待っていたらしい。
普段は運転席からは見えない海が、白波を立てて迫って来るのが見えた。ほどなくして前に止まっていた車がフワっと浮いた。あわててターミナルの3階に逃げて事無きを得たらしい。
空港で夜を明かしたが、翌日は泳いで帰宅したと言っていた。



石巻市へ向かうため高速道路を走るが、数百メートおきに道路が隆起したり陥没したりしているので50キロ規制がかかっていた。規制がかかっていなくてもスピードは出せない。ガタガタだ。

2時間ほどかかって女川街道から女川港に入る。
高速を降りて程なく、大きな溝を重機が掘っているのを見かけた。
何列もあり、3分1ほどが埋められ、花が添えられていたのを見て埋葬用の溝だということが分かった。みんなの顔色が変わる。
ここまでとは思っていなかった。いや思っていたけど想像を遥かに超えていた。みんなため息しか出ない。



女川の街。
瓦礫と潰れた車、よじれた線路。家は基礎だけしか残っていない。CDやビデオテープ、調味料などの生活用品が落ちているのを見ると、辛くなる。
見渡すかぎりが、、、。ほんとに1ヶ月もたっているのか?昨日起こったような光景だった。涙が出る。









ブルーライン走って北上川河口を目指す。途中いくつもの津波にさらわれた街をみた。




女川を後にして北上川へ向かう。河口にある大川小学校では多くの小学生、教師たちが犠牲になった。
北上大橋。左の方が流されて無くなっている。

見渡すかぎり・・・・・。今も排水ポンプ車で排水し続けている。
津波が川を遡上し、溢れて街が流された。以前の様子が想像できない。


このあたりで唯一残った自動販売機。印象的だった。



川の調査をしながら川を遡る。
大堰を超えた辺りで通行止めになっていた。道や崖が崩れているみたいだ。これ以上進むことを諦め、今度は対岸の河口付近へ向かった。もう夕方になっていた。

電信柱。根元がグシャグシャになっている。

石巻市役所支所。近代的なデザインの建物だったはず。


支所の裏には小学校があった。吉浜小学校。
三階の屋根近くまで波が来た形跡がる。

小学校の時計は地震が起こった時刻で止まっていた。

小学校の体育館。ひどい。言葉を失う。ため息しか出ない。みんなそうだった。





 仕事があるので、ほとんどが移動中の車の中から撮った写真。写真を取ることを躊躇うようなもひどい場所も多くあった。
 今回、目の当たりにした光景をみて思うことは、テレビや写真では到底伝わらない。伝えられないいうこと。実際に現場へ行かなければわからないとつくづく思った。これほど痛感したのははじめて。
  
それと吉浜小学校のことが気になってしかたがく、帰ってきていろいろ調べた。
ほとんどの児童は屋上に逃げて無事だったようだ。 けど一部の児童と教師はまだ行方が分かっていない。


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