2008年10月27日月曜日

地元の文豪

今年は、菊池 寛(きくち かん) 生誕120周年。
最近、その香川が生んだ小説家?文学家?菊池寛の取材に行っている。
いろんな作品を残してみますが、有名なのは「父帰る」や「真珠婦人」。
今日で取材も一段落したので、印象に残った言葉を記録します。

菊池寛は芥川龍之介と親しい交友関係にあり、常に比較対象される間柄。

芥川は、日本の純文学を極めていこうとした人物で、いかに文章をきれいな言葉で綴るか、そしていかに芸術的に文章を構成するかを研究し、書いた。

菊池寛も元々は芥川と同じく純文学を極めようとしていたが、途中でいろいろあってある結論に達します。

文章は、読者に読まれてこそ価値があるものだ


いくらきれいな言葉で、芸術的な表現で文章を書いたとしても、読まれなければ意味がないと思ったのです。そして、菊池はどんどん大衆小説の道を歩み始め、文芸春秋を皮切りに様々な雑誌編集者としての才能を開花させるのです。

逆に芥川は、純文学に行き詰まります。
それだけが原因ではなかったんですが、最後は自ら命を絶ってしまいます。

対照的な2人ですが、もしかしたら菊池も芥川という、純文学において天才的な存在があったからこそ大衆小説の道に進めたのかもしれません。芥川には、純文学では勝てないと思ったのかも。


自分を信じることも時には大切。でも自分の限界を受け入れることも決して悪いことではないと思います。早く限界に気づけば次に移りやすい。(これがなかなか難しいですが、、、。)

大衆に理解されてこその価値。
この感覚はすごく大切にしなければいけないと思いました。
芸術性を突き詰めていくことが悪いことでは決してなく、とてもすばらしいことですが、これはそれが出来る人がやるべきで、みんながみんな出来ることではないということ。
そこ(芸術性)ばかりに囚われて、そこにしがみつき、それ以外を排除しててしまうのはよくないなぁと。

経験談で言えば、
難しい音楽理論でコードを進行し、複雑なアドリブソロを繰り替えすモダンジャズのコンサート。
もちろんそれが好きで集まっている観客。難しい顔で曲を理解しようと聞き入っています。
それも確かに好きな人にとっては面白い時間なんです。(その気持ちはよく分かります)
でも、たまに分かりやすいコード進行でノリの良いポップな曲やポップスのカバーなんかが演奏されると、会場はとても盛り上がるものなんです。

芸術性(マニアックさ)と大衆性(分かりやすさ)両方あるから、お互いが引立ちます。
フランス映画ばかりは観ていられないし、ハリウッド映画ばかりもなんだかね~。
僕にはカンフー映画も必要ですがw

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